釣りをやっていると、たまに「自己ベスト」と呼べる一匹に出会う。自分にとってのそれは、5年ほど前の11月に釣り上げた、50cm近い赤甘鯛だ。甘鯛は30cmもあれば良型と言われる魚で、50cm級なんてそうそうお目にかかれない。クーラーを開けるたびにニヤニヤしてしまう、それくらい嬉しい釣果だった。

……が、先に白状しておく。この自己ベストの甘鯛、最終的に一切れも口に入ることなくゴミ箱行きになる。しかも、原因は完全に自分のミスだ。
買ったばかりの真空パック機で、魔が差した
当時の自分は、真空パック機を買ったばかりだった。釣った魚を真空にして保存できて、しかも「熟成」までできるらしい。動画やらブログやらで「白身魚は数日寝かせると旨味が乗る」という話を見て、すっかりその気になっていた。
そこで思った。「この甘鯛、せっかくやき、じっくり熟成させて一番旨い状態で食うちゃろう」。自己ベストの魚だ。どうせなら最高の状態で食べたい。その気持ち自体は、間違っていなかったと思う。
問題は、そのあとだ。
「真空にしてあるき、大丈夫やろ」
三枚におろした甘鯛を、買ったばかりの機械で真空パックにする。空気が抜けてピチッと密着していく様子が、なんとも気持ちいい。これで完璧だ——と、当時の自分は本気で思っていた。

そのまま冷蔵庫へ。あとは待つだけ。一日、二日と経つうちに、旨味が乗っていくはずだ。ワクワクしながら、自分はある重大な事実を完全に見落としていた。真空パックは、あくまで「空気を抜くだけ」。冷蔵庫の温度は、いつもの設定のまま。
熟成というのは、低い温度を保ってこそ成立する。チルドやパーシャルといった0℃前後のキンキンに冷えた環境で、ゆっくり時間をかけるからこそ「熟成」になる。ところが自分は、普通の冷蔵スペースにポンと入れただけ。真空にしてあるという一点だけで、なぜか「これで腐らん」と思い込んでいた。
10日後、開封。そして地獄
「そろそろええ感じやろ」と開封したのは、10日ほど経った頃だった。今思えば、白身魚を通常の冷蔵で10日も寝かせる時点で、もう完全にアウトである。
袋にハサミを入れた瞬間、これまでの人生で嗅いだことのない種類の臭いが、台所いっぱいに充満した。生臭いとか、そういう次元ではない。表現が難しいが、本能が「これは食ったらいかんやつだ」と全力で警告してくる臭いだ。熟成どころか、見事に腐らせていた。
慌てて袋ごと処分したが、問題は自分の手だった。ほんの一瞬触れただけの手に、あの臭いがガッツリ染みついて、取れない。石鹸で洗っても、ハンドソープで洗っても、消えない。指先を鼻に近づけるたびに、さっきの地獄がよみがえる。
当然、嫁の反応は冷ややかだった。
「なにこれ、くっさ! 何しよったが!」
自己ベストの甘鯛は、一切れも口に入ることなく、真空パックの袋ごと静かにゴミ箱へと消えていった。合掌。手の臭いは、結局その日いっぱい取れなかった。
教訓:熟成は「真空」じゃなく「温度」
この一件で骨身に染みたのは、熟成で一番大事なのは温度管理だということ。真空パックは確かに便利な道具だが、それはあくまで「空気を遮断する」だけ。低温をキープできていなければ、真空だろうがなんだろうが、魚は普通に腐る。当たり前の話なのだが、新しい道具を買った高揚感で、その当たり前がすっぽり抜け落ちていた。
それ以来、魚を寝かせるときは必ずチルドやパーシャル、長く置くなら冷凍と、温度帯を使い分けるようになった。今となっては、この甘鯛が自分の「魚の保存哲学」の原点だ。授業料としては、ちょっと高くついた気もするが。
……ちなみに、これだけ魚の保存にうるさくなったのに、つい先日、冷蔵庫の賞味期限切れチーズでは危うく同じ轍を踏みかけた。人は、そう簡単には学ばないらしい。

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